なんと江戸時代に大阪には梅田や難波の繁華街がなかった

いまでは日本を代表する大阪の繁華街、キタの梅田とミナミの難波ですが、江戸時代にはどんな様子だったのでしょうか。やっぱり江戸時代から華やかだったかとおもいきや、当時の意外な様子が見えてきました。

江戸時代の梅田は田畑の中の小さな集落だった

JR梅田駅と大阪駅を中心としたエリアは、いまでは超高層ビルが林立し、百貨店と歓楽街が広がる大阪の顔と言える場所です。昔から発展していたのかとおもいきや、本格的に人が増え始めたのは1874年に大阪駅が開業した頃からでした。

ではそれ以前はどうだったかというと、当初の淀川と中津川に挟まれた梅田のあたりは、なにもない低湿地帯でした。江戸時代になり、埋め立てを行って田畑を作ったので「埋田」と呼ばれたそうです。

のちに近隣の露天神社などの梅にあやかり、梅田の漢字を用いたといいます。

江戸時代を通じて寂れた土地であり、土と畑ばかりなのでドタとも呼ばれていたそうです。近隣の堂島や中之島は、諸藩の蔵屋敷が立ち並んで立派な街並みだったのと対照的です。

なにか今の梅田のイメージとも真逆だったんですね。

江戸時代の難波は藍の生産地だった

大阪の難波は、JR難波駅や南海電鉄なんば駅のあたりを中心とし、大阪の商業と文化の中心地と言えます。

江戸時代からさぞや発展していたに違いないと考えたいところです。ところがこちらも梅田と同様に、想像とはかけはなれていました。

江戸時代中期のころ、大阪の市街地は、東は大阪城、北は天神、西は京セラドーム、南は道頓堀川の内側の範囲に拡大していました。

道頓堀川沿いは商業工業の店や住宅が立ち並ぶ地域でしたが、江戸時代以前から道頓堀川の南北のあたりに、上難波村と下難波村がありました。

その後江戸時代に、JR難波駅あたりが難波村になりました。この付近は藍染めで知られる植物「藍」の生産地となっており、また海が近いので材木置場ともなっていました。

住宅が少ない地域であり、したがって繁華街も遠い、寂れた場所だったのです。

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